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三光ソフランの歴史

昭和49年 9月 「三光不動産株式会社」設立(資本金2,500千円)埼玉県大宮市(現さいたま市)宅地建物取引業埼玉県知事免許(1)
第6111号 不動産業開始
50年 1月 社団法人 埼玉県宅地建物取引業協会 加盟
50年 1月 社団法人 全国宅地建物取引業保証協会 加盟
50年 6月 一般建設業 埼玉県知事許可(般52)第20140号
建設業開始
53年 1月 商号を「三光建設株式会社」に変更
60年 7月 特定建設業 埼玉県知事許可(特_60)第20140号
60年 10月 一級建築士事務所 埼玉県登録(1)第3590号
62年 2月 「株式会社グットライフ」設立(出資比率30%)
平成3年 3月 関連会社「株式会社財産ドック」設立
資産家を対象としたコンサルティング営業を本格的に開始
4年 2月 「株式会社ウィーン建築設計事務所」設立(出資比率80%)
5年 1月 本社ビル新築
9年 5月 「株式会社武蔵野工務店」並びに「株式会社グッドライフ」を子会社化(出資比率100%)
9年 9月 「株式会社武蔵野工務店」並びに「株式会社グットライフ」を吸収合併
「株式会社テクノアート建築設計事務所」を子会社化(出資比率100%)
10年 5月 第1回新株引受権付社債発行 102,000千円
11年 11月 「メディカル・ケア・サービス株式会社」設立(出資比率30%)
12年 4月 商号を「三光ソフラン株式会社」に変更すると共に、子会社として「三光建設株式会社」設立
12年 8月 第1回新株引受権付社債行使、発行済株式 409,580株(資本金256,580千円)
12年 12月 株式の額面変更並びに資本準備金の資本組入れによる株式分割 額面50円、発行済株式 6,143,700株
(資本金 307,185千円)
13年 2月 第1回無担保社債発行 150,000千円
13年 5月 本店所在地合併により埼玉県さいたま市大成町1丁目212番地3と変更
13年 7月 「メディカル・ケア・サービス株式会社」へ増資し子会社化
(出資比率50%)
13年 8月 本社ビルを拡張
13年 12月 「株式会社ウィーン建築設計事務所」と「株式会社テクノアート建築設計事務所」を合併存続会社「株式会社ウィーン建築設計事務所」
14年 2月 大阪証券取引所ナスダックジャパン市場(現ニッポン・ニュー・マーケット─「ヘラクレス」市場)に株式を上場
新株発行600,000株 発行済株式数6,743,700株(資本金382,185千円)
15年 2月 公募増資
新株発行1,000,000株 発行済株式数7,743,700株
(資本金965,185千円)
15年 7月 株式分割
株主所有株式数を1株につき2株の割合をもって分割 7,743,700株の増加
発行済株式数15,487,400株
16年 9月 本社第3ビル新築
17年 8月 リフォームショールーム開設
17年 12月 株式分割
株主所有株式数を1株につき4株の割合を持って分割 46,462,200株の増加
発行済株式数61,949,600株
18年 5月 大阪事務所開設
18年 7月 株式交換により「株式会社アップル」を子会社化
18年 8月 東京事務所開設
18年 8月 連結子会社「メディカル・ケア・サービス株式会社」
名古屋証券取引所セントレックス市場に株式を上場
18年 9月 三光ソフラン株式会社川口支店開設
19年 8月 埼玉県知事免許から国土交通大臣免許に書き換え
宅地建物取引業国土交通大臣免許(1)第7566号
20年 6月 持株会社体制へ移行
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創業者「高橋誠一」について

高橋誠一
高橋誠一氏 (たかはし・せいいち)
埼玉県大宮市(現さいたま市)生まれ。東京電機大学電気工学科卒業。1974年三光不動産株式会社(現三光ソフラン)設立、代表取締役社長就 任。財産ドック社長、メディカル・ケア・サービス会長。全国賃貸管理ビジネス協会会長。
 

はじまりは家業の米屋から
「自分で事業を興したい」。資産の有効活用のコンサルティング、建設・不動産、介護事業を手掛ける大阪証券取引所ヘラクレス上場企業、三光ソフラン社長の高橋誠一は起業への強い思いをいつも持っていた。

 高橋は東京電機大学電気工学科四年生の時、電機メーカーに就職が内定していた。入社するまでの数カ月間ということで、米屋を手伝った。当時、米屋はすでに斜陽産業。何よりも起業したいと思っていた高橋にとって、魅力は薄かっ た。
  「(米屋を)継ぐ考えは全くなかった。会社に入っても、そこで勉強して独立を考えていた」という高橋が米屋を継ぐと決心したのは入社式の前日。義兄の「君が継がないなら、父は米屋を売るといっている」という言葉が心に響き決断した。ただ、高橋は父に二 つの条件を示した。「給料は大卒初任給の五割増。自由にやらせてほしい」

お客側に立った「合理性」
 高橋の仕事ぶりは新しい発想と改革意欲に溢れていた。あらかじめ10kgの米を袋に詰め、毎朝の御用聞きの時にお客の家に持っていっ た。当時、米屋は午前中、お客の家に御用聞きに回り、店に帰った後、お客の注文した量ごとに米を袋に詰め、夕方にかけて配達、集金していた。
  これが「米屋の仕事」で、当時の米屋の常識だったが、高橋はこれを不合理と考え、自らの考えを実践した。袋に詰めた米を御用聞きの時にお客の家に持ってい くことで、それまで1日に3回、4回とお客の家に足を運んでいたのが一回で済んだ。米は精米したら2週間以内に食べるのがおいしいといわれているが、20kgを注文していたお客も10kgを2回とすることで、よりおいしい米が食べられるという「お客側に立った」ものでもあった。

  10kg詰めの販売に変えたことで、午後はすべて新規の顧客開拓にあてることができ、1年で利益は50%増と高橋米穀の収益は拡大。店を増やせば収益をさらに拡大できると考えた高橋は多店舗展開に乗り出す。次の年、高橋は矢継ぎ早に2店舗を開設。その後、毎年のように出店、10年間で43店まで拡大した。

得意客に満足してもらうための情報提供
  この間、1972年1月、高橋は個人で高橋建設を創業。宅地建物取引業に必要な資格も取得。2年後の1974年9月、三光不動産株式会社(現・三光ソフラ ン)を設立、代表取締役社長に就任した。高橋米穀の本店に電話を一本引いての起業。ゼロからのスタートだった。
  高橋米穀での高橋は得意客を千軒持っていた。高橋は顧客に対して、米だけでなくさまざまな情報も提供していた。ある時、お客の一人から「近くにアパートがないか」と聞かれた高橋は物件を紹介。お客は喜んだ。高橋は「不動産の仲介は商売になる」と直感した。

  不動産の仲介で自らの事業をスタートした高橋は建売住宅、注文住宅と事業を拡大。業績も右肩上がりだった。1980年、高橋は当時持っていた40棟の建売住宅をすべて売却。注文住宅に比重を移したおよそ半年後、第二次石油ショックの影響で建売住宅はほとんど売れなくなった。1987年、高橋は土地を取得。
1年後、この土地の価格は取得時の2.5倍となった。高橋はこの土地も3年かけてすべて売却した。

バブル崩壊後に見い出した好機
 1989年が一の年末、東京証券取引所の日経平均株価は史上最高値の3万8,915円で引けた。地価の高騰も記録的だった。資産価格気に上昇。バブル景気といわれた時代。しかし、1990年年初から株価は暴落。翌年には、実体経済も急速にダウン。バブル崩壊の始まりだった。第二次石油ショック、バブル崩壊で多く の建設・不動産会社は経営難に陥ったが、高橋の会社はほとんど影響を受けなかった。高橋は「運が良かっただけ」というが、運を自ら創り出す知力と行動力が高橋にはあった。

 高橋はバブル崩壊をむしろ好機とした。1991年3月に株式会社財産ドックを設立、土 地資産の有効活用など資産のトータルライフプランニングに乗り出す。駅から離れた土地の有効活用として、2001年5月桶川市に痴呆性のある高齢者が共同 生活するグループホームを開設、運営も始めた。2000年4月に介護保険制度が導入。高橋は制度を事業化。時機をとらえる資質も持っている。
  グループホームはすでに25カ所オープン。2009年の現在では100棟を超えている。今後は総合介護事業会社を目指す。高橋は「どちらが儲かるかではなく、どちらが正しいか」をいつも経営判断の基本に据えている。

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